好奇心は、時に己をことごとく苦しめる。
 かくれんぼという子供のお遊びをご存知だろうか。近くの物陰に隠れた仲間達を探す一人の鬼を決め、適当なところで目隠しをしてもらう。もういいかーいとたずねれば、まーだだよーと声がする。もし、もういいよーという自信ありげの返事が鬼の耳に届けば、声の発信源を頼りに、鬼はきょろきょろと辺りを見渡しはじめるだろう。
 そんな時、ふと視界の中で威圧感を与えるなにかが、そこにあるとする。
 公園の外れにある、一軒のファミリーレストラン。隣接した場所に駐車場があり、その先は深くて背の高い林が生い茂っている。人道がなく、まるっきり手つかずの自然が、一個の家庭用倉庫を避けていた。比較的まっすぐな架空の線で、林と駐車場が区切られているはずなのに、なぜか倉庫だけ林のスペースに入り組んでいる。まるで、偉大な自然が生まれ育つ百年前から倉庫が置かれてあったかのような。
 奇妙なのは、倉庫が苔や錆に支配されていないことだ。
 スライドする扉を開けて、誰かが中身を整理していたとしよう。それでも、林の枝や葉に接触し続けている面は、雨や雪とかで少しはくすんでいてもいいはずだ。扉の窪んだ取っ手が、手垢などで変色していてもいいはずだ。
 しかし、倉庫はまるで新品だ。
 使われた形跡も、持ち主が業者などに頼んで運んできた形跡も、ない。
 私ははじめ、遠巻きにそれを眺めていた。気づいたらそれの真ん前に立っている。
 まるっきり普通のサイズだ。机やベッドや、最低限の生活用品を持ち込めば住めなくもない、目測およそ六畳分の新築だ。ただ幾許か心許ない設計で、集中豪雨が襲いかかれば、木端微塵に儚くも壊れるだろう。そして、小型の鍵穴のすぐ上には、黒のマジックインキで、十三という数字の走り書きがある。まだ新しい。
「……?」
 林がわなないて、私は奇怪な倉庫を見入ってから、ひと時も目を離していなかったことに気がついた。
 揺さ振れる林の木々は、まるで一段と高いところまで登り詰めたジェットコースターが急降下してゆく揺れようだ。風が強い。雲は厚い。が、まだ遠くの方で千切れたて澄んだ青空が見え隠れしている。恐ろしい速度で西から東へ流れてゆく様は、まるでここが動いた洗濯機の中という風だ。
 先程まで、イヤホンを装着して小耳に挟んでいた、腰に引っ提げている小型ラジオから放送されていたた気象予報。まもなく台風が上陸すると共にかなりの降水量も期待できる。さんさんと光り輝く快晴が続いたお陰で、妙に豪雨に恋焦がれている私は、たかが雨ごときにためらう必要性を感じ得なかった。
 それに、今日は金曜日。明日はゆったり休める土休日だからだ。
 縦長にくぼんだ、向かって右側の扉の取っ手に己の右手を添える。酷く凍みるような感触が、真ん中三本の指先から伝わってくる。一段と強い暴風に、腰にぶら提げたラジオが重力に逆らって震えた。だが私は怯まずに指先に力を入れる。
 扉は、不意に軽く、そしてたやすかった。誰の所有物かも知らない倉庫。見た目がごく普通の大人である私などが、勝手にあさっているところを他人に見られてしまったら。子供のように、ただおとがめを食らうだけでは済まないし、第一に一端の大人としての威厳が潰えてしまう。手早く辺りを確認し、人の気配がないことだけを認識すると、くるりと百八十度回転し、倉庫の中へと忍び込む。先程は気を抜いて大袈裟な音を立ててしまったが、今度は慎重に慎重を重ねあげ、扉をゆっくりと閉めてゆく。だんだん、視界が闇に近い夜へ溶けてゆく。
「おや。新しいお客さんだね?」
 ここで、なんの隔たりもなく声を聞き入れてしまわなければ、最初の難関は成功していたはずである。
 不思議なくらい風による物音がなかったためか、大袈裟にびくりと身体を揺さぶらせてしまったせいで、方膝を閉めかけの扉に強く打ちつけてしまった。どしゃんと鉄の悲鳴を上げた扉は、しかしそれだけでおかしな変哲もなにもない。安心したが、安心し切れないおもむきで、私は扉を閉め切った。
「だ、誰ですか?」
 閉め切り終えたままの体制で、私は顔を背中の方へ向けなかった。
「鍵穴のすぐ上を見なかったのかいな? 数字が書いてあっただろう。あれはわたしの名前さ。わたしはナンバー・サーティーン、気軽にイチサンとでも呼んでおくれ。」
「イチ、さん? いえ、イチサン……さん? では、この倉庫は、あなたの所有物なのですか?」
 イチサンと名乗る男声は、貫禄があるようでとても若々しく、穏やかな温もりが感じられた。もし、この場で住み暮らしている者ならば、倉庫の外見から判断して、就職して間のないしたっぱ社員か、そこそこの稼ぎがあるフリーターだろうか。決して子供の声ではないが、声変わりしたばかりの青少年とも聞き受けられる。
 正体不明の、突然な登場人物に、私は顔を向けて何者かを見定めようとする勇気がなかった。
「そうさ。わたしがこの家の主、イチサンさ。最も、客人はざっと百年と二十六年振りではあるな。うんうん、人間と会うのは実に久しい。」
「は、はぁ……。」
「これから発達した台風が上空近くを通過するて。これも何らかの縁、しばらくゆったりするがいいさ。後で蕎麦茶もいれて持ってこさせよう。」
 勝手に住居侵入されて、なんらかの縁などと解釈する人が、果たして日本中のどこを探せば見つかるのだろうか。
 百年と二十六年振りなど、日本の最長寿記録を大幅に超えている。
 既に、倉庫の存在だけでも充分に怪しい雰囲気がぷんぷんしていたというのに、これでは進んで落とし穴にはなってしまったようなものではないか。けれども、ここでむざむざと引き返す手なら、まだ残っている。穴の底から必死に這いあがるように、私はもう一度、右手を扉の取っ手へと伸ばし、スライドさせようとありったけの力を使う。
 びくともしないのだ。
 私の視線の先に、表で見たのと全く変わらない鍵穴がある。すぐ上には、黒のマジックインキで、十三という数字の走り書きがある。まだ新しい。違っているのは、文字が左右反転した状態で。鍵穴の位置も、表で見た時とまるで鏡合わせの位置にある。
 まさか、鍵……かけられた?
 冷や汗が顔中に塗り回された気分を覚える。
 その上、これまで静寂に包まれていた倉庫の鉄の壁が突然、強風に煽られはじめた。何十人、何百人もの人達が、金属バットを手にして力任せて叩きつけているような。
 いよいよ私は、恐怖心に駆られていった。取っ手に触れていた三本の指を離さず、滑り込むようにして背後を振り返る。外見六畳の憶測など軽やかに無視されていた。六畳半とか、八畳だったとか、そんな生易しいレベルではない。まるで県営か市営の体育館のようなだだっ広さの中に、外で見た同じような倉庫が両脇二手に分かれて延々と並んでいる。十二個くらいあるのだろうか。
 奥へ続いている正面の道に、いましがた話しかけてきたと思われる人間の影が歩いている。実体はなく、人間をかたどった黒い塊。背を向いて、蕎麦茶だったか麦茶だったかを淹れに歩いている。
「……ひ……っ」
 限界だ。
 鉄の壁は、暴風だけでなく雨脚をも伝えるようになっていた。雨は、耳に痛いくらい壁や天井を踏みつけている。横殴りなのか、そうでないのか。四方向の壁や天井までもが、全く同じ音量で、全く同じ音。この倉庫だけを、集中的に狙っているかのような。
 不可解すぎて、解決策が見当たらない。これから更に恐怖が待ち構えていると思えば、底なし沼に足を踏み入れて、そのまま地獄へ真っ逆さまに連れてゆかれるようなものだ。
 私は走った。闇雲に、どこへという目的もなく。
 目前の、イチサンという影をすり抜けようとして、不意に突き飛ばされた。老人とは思えない素早さで、私に蹴りを入れたのだ。嘆かわしいことに、かなり痛い。思わず仰け反ってついてしまった尻が……ではなく。
「ったた、なんだ……っ?」
「ゆったりしておれと申したぞい。そこで待ちなせえ。」
 ひぇっひぇっひぇっ――。
 気持ち悪い、老婆のようなしゃがれた笑い声は、しかしテノールの男性の声である。顔の穴も、ほくろも髪の毛すらもないイチサンの影は、何事もなかったかのように遠のいてゆく。
 蹴られた腹を右手で抑えていた私は、更なる異変に気づかざるを得なかった。無意識にあてがっていた手が、どうもおかしい。ぬるぬるとした、少しぬめった液体の感覚があることに、とまどいが隠せない。
 ゆっくりと、押さえていた腹から右手を遠ざける。粘ついた細い糸が何本か引いているのが、見なくてもわかる。意を決して、私は自分の掌へ視線を落とす。
 真っ黒の、墨汁のような液が、まだ新しかった自分の服と掌に、たっぷりと垂れていた。
 ひぇっひぇっひぇっ――。
 聞こえないはずの笑い声が、耳に染みついて取れずにいる。
 黒い水がついたままの右手を、神かなにかにすがるように手を伸ばし、一心不乱に駆けだしていた。その手が掴んだのは、並んでいた倉庫のうちのひとつの取っ手。最初に潜った倉庫の扉との例に漏れず、鍵穴がある。すぐ上には、黒のマジックインキで、四という数字の走り書きがある。まだ新しい。この際どこでもよかった、外に戻れる正解の扉を求めていた。扉の数だけ、片っ端から開けるまでだ。
 私は、四番倉庫の扉を勢い任せにスライドさせた。
 己に都合のいい期待を膨らませて奥を見張った。
 待ち構えていたのは、新鮮な真っ赤の血液でかたどられた、真っ赤なイチサン。裂けるような口から覗く長い舌は、ぷるりと揺れる液体の唇を、うまそうに舐めており――。

 刹那、台風の豪雨により、私もろとも倉庫を粉々に破壊した。

 好奇心は、時に己をことごとく苦しめる。
 その苦しみさえも、骨の芯から溶かし尽くしてしまうような、泡を吹く硫酸で。
 悪夢なのか、それとも現実なのか。
 私には理解の施しようがない。








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20060715
文芸部内で本を作った際に渡した一文