「へぇ。怖気づいて逃げたのかと思った。」

 古びた橋を駆ける電車。車体も古いのか、真夜中にもかかわらずレールを巨大な爪で擦ったような聴き慣れた騒音が、過ぎ去った。
 篠は、轟く騒音の中、わざわざ大声を出し、だが無表情で嘲笑う。
 人はこの場所を河原と呼ぶが、肝心の川は、病気に侵され血管が縮小されてしまったかのように細い。その割に、いましがた十五両ほど引き連れる赤と緑の電車が通っていった、朽ち果てかけている立派な橋はいやに高い位置を長々と連ねている。

「……しの?」

 腕を組み、片足立ちで、若干蟹股の女性のシルエットを前に、凪は恐るおそる声をかけた。
 組んでいた腕を解き、一歩近づいた影は、やはり片足立ちである。

「じゃあ、あんたはなぎでいいんだね。初めまして。あたしは篠。」
「リアルでは初めましてだな。」

 相手の正体を知った凪は、ふわふわと挙動不審だった腰を落ち着かせる。不用意に浮いた腕は、芯が抜かれたように垂れさがる。愛想笑いを浮かべながらも、電灯がどこにもないので、篠という女性がどんな顔をしているのか、どういった服を着ているのか、まだ未知だった。このまま一度別れ、再度昼に都会のど真ん中にでも待ち合わせた場合、お互いが気づき合うまでにかなりの時間を要するだろう。
 篠がジーパンの懐からペンのような懐中電灯を抜き取って、慣れた手つきで握り締めると親指をスライドさせる。パッと相手の顔面を射抜く光は、街灯どころか孤月すらなく闇に慣れた凪の両目を酷く眩ませる。じわりじわりと打つ痛みをもたらしつつも、差す光の受け皿を取り繕うと、意思に関係なく生きたレンズが身動きする。意思なら、眼球から伝わる痛みを和らげようと、無意識に押さえた手で揉む程度しか備わっていない。

「それじゃ顔、見えないじゃん。」
「普通、人の顔に向けるか……?」
「ああ。照れ隠しかと思った。ごめんごめん。」

 悪気なんてさらさらないようで、しかし謝ると同時にライトを二人の間に照射させる。小型のエレベーターくらいの円形をした明かりは、小石と砂利の灰色を鮮やかに色づけている。ただぼんやりと、探し物を目で追うこともなく灰色を眺めながら、なかなか返ってこない凪の発言を待つばかり。
 篠は、自ずから婉語や当たり障りのない退屈な言葉を投げても、意味がないと知見していた。仮に、相手からそんな空談をしてきた場合、本題をおっ被せればそれでいい。

 なにせ、彼女は彼を殺す義務がある。

 出会い系サイトなどでよくある集団自殺や殺人依頼、極端に言い表せばこれらと同じ扱いになるのだろう。ただひとつだけ違うのは、コミュニケーションゲームによくあるチャットで知り合って五年にもなる仲だということ。これまで幾度となく交流しあっているだけあって、お互いに文章から読み取れる性格なら大雑把に把握している。
 だから篠は、はじめに嘲笑った。なにひとつ、感情すらも抱かなく。

「……いつまでそうしてんの。」

 痺れを切らして、とうとう篠から言葉を洩らした。重心を委ねていた右片足は、皿に載せられたどでかい分銅を支えるかのごとく、筋肉が張っている。立派な癖となり果てているのか、いつもと同じ足にずっと体重を上積みさせていたらしい。
 指定時刻よりもだいぶ待たされた訳ではない。約半時間と、訪れるのが早すぎたのだ。
 生まれた時から住んでいる、どうしようもなく田舎で長閑で、けれど穏やかで美しく緑豊かな自然に溢れる篠の世界は、親に捨てられ泣き腫らす人の赤子のようにわんわん鳴く虫ばかり。叩きのめしても手の込んだ対策を施そうとも集る蝿に悩まされない日々なんて一度もなかったはずなのに。ここにはそれすらない。小石と砂利の隙間には、誰かがポイ捨てしまくっているのだろう、しつこいくらい紙くずや色のついた塵が混ざっている。座る気になどなれなかった。だから、立って待っていた。

「寝てないから、なんか痛いままなんだよ……っ。」
「カンテツ? 完全徹夜? 寝る暇も惜しんだの? あんたから頼んできたんだよ。なのに未練たらしい訳。ああ、そう。」
「そういうサッパリとした言い草はリアルでも同じだったのか……耳で聞くと一層痛快に感じるよ。」
「それはどうも。」

 ぐいっと、最後に一度だけ閉じたままの目を擦る。ぱっと見開いて、凪は闇夜に浮かんだ電球の光を見つめた。視力は悪くなるだろうが、そんなことは普段から頭にないらしい。急に日常から抜けだしてきた彼が、しかも、人間らしい人間らしさを持ち得ている彼が、そんな些細なことを気にするはずがない。そう考えて、篠は改めて問いを重ねようと口を開く。
 ここまできたら、自分が満足しなければならない。任務を終えて、跳ね返った血を舐めても後味が悪い。彼の命を背負う羽目になる。

「あと五分。五分で日付が変わる。二月十八日。あんたは二十歳になる。あんたがなりたくないと言い続けていた二十歳になるの。めでたくあたしと同い年。わかってるの?」

 拍車をかける篠の口調。面倒なのは承知の上、けれど引き受けた彼女にも意志がある。でなければ、遠い田舎からわざわざ様々な電車を乗り継いで来訪しない。篠は、けじめがほしかった。煙に撒かれた靄なんて必要なかった。それこそ無駄で、面倒だから。
 篠のジーパンのもう片方のポケットには、ジャックナイフが飛びでている。通販で簡単に安く手に入った代物で、切れ味も相当な凶器。リストカットを趣味とする友達に試させたら、薄い切り傷からどくどくと溢れでた。残念ながら、その友達は血液不足で病院送りになったまま会っていない。頚動脈にでも触れさえすれば、よく切れて、すぐ死ぬだろう。
 薄明かりに慣れた目で、凪はナイフに気づいたのだろう。無意識なのか、雫が頬を伝って落ちた。音は立たなかった。

「わか……てる、よ。」
「……。」
「でも、いや、なんだ。」

 篠は、僅かに目を細めた。表情のない死人の顔で、けれど剣幕さが窺える篠の目つきは、まだ輝きの失せていない凪の目を直視する。
 生きることに絶望した彼は、それでも前を歩んでいた。帰り道のない、四角く盛り上がった土の地面を。歩くことで体重の重みを受けた地面に、耐震設備なんてありはしない。崩れ去る道を一定のペースを保ちながら歩いてゆき、その道にゴールを描く。明確な人生の終止符を決めることで、彼は精一杯いまを生きると彼女に約束した。全て彼が決めたことであり、終止符を討つ任務を承った彼女は、単なる仲立ちに過ぎない。
 二日前まで、彼らはチャットで話をした。金曜日だったので、授業数が極めて近いサークル仲間の一人と飲みに行っていた凪は、酔いの覚めない軽快なトークを飽きもせず延々と続けていた。篠はその内容を記憶すらしなかったが、始まりと終わりの時刻だけはどうしてか頭の隅に残っている。午前二時から、明朝六時。その後は迷わずベッドに直行した。

「……いやなんだ。人間関係を築くことなんかじゃない、この世界の摂理がだ。……耐えられないんだ。」

 その彼は、現在、彼自身の人生全般に嫌悪している。その嫌というのが、一体どれぐらい嫌なのか、こうしてリアルに彼の声を聞き入れた現在でも、篠にはあまり理解できていない。
 期せずして零れた涙。耐えられないのに耐えようとして、虫の羽音のように小刻みに震えた潤み声。けれどなぜだかだいぶ落ち着いてきている。単語がはっきりと聴覚を貫く。
 貫くが、心情には刺さらない。
 不意に、器用に四本の長い指で握り締めたままのペンライトを親指だけで消し、足場に放る。堅くて高い音が二、三度響いた。ずっと照らしていた地面を見続けていたお陰か、真っ暗になったことで急に顔を上げ、乾いた音にびくりと肩を跳ねさせた凪の姿が見て取れる。

「……そう。あんたの言いたいことは間違ってない。摂理なんてあたしも最初から間違っていると思ってた。」
「え……?」

 時間がなかった。篠の体内時計はとても正確で、その体内時計は、自分があと五分といってから間もなく三分が経とうとしている。止まらない急行電車の秒針は、静けさを妨げはしないものの、返って無音というのは気味が悪かった。篠にはわかるが、凪にはわからないからだ。
 心の準備など、させて堪るか。
 篠はもう、待たなかった。

「金がなければ生きれない。努力なしには生きられない。他人の犠牲なしに生きれない。ああ、そう。正論だよ。そして、あんたの気違いな趣味は、奇麗事を並べること。」

 まだ光の残っている視界の中で、するりと抜いたジャックナイフを一振りして刃を剥きだしにさせながら、篠は既に痺れの抜けていた足で素早く凪の背へと回り込む。
 がっ、という音と、かつん、という音。
 恐らく、背の首筋を力で引っ掻いた音と、立派に組まれた白骨に当たった音だろう。切れ味がいい異常に頑丈なナイフは、衝撃で割れ目でも作ったのかもしれない。彼の悲鳴ひとつ、喉から通る空気の抜けたような、なまめかしい声もなかった。

「惜しいよ。だってあんた馬鹿だから。ここまできて、思った通り怖気づいてたみたいだけど、あんたちゃんとここにきた。でも結局あんたは死ねないんだ。あたしという媒介を使わないと死ねないんだ。あんた楽だよ。あんた黙って座ってればいい。座ってれば死ねるから。多少の痛みがあったとしても。あんたは死ねるから。あんたは馬鹿だよ。黄泉の国でもあんたは絶対に満足しないよ。そんなのあたしが一番知ってる。だってあんたは馬鹿なんだ。ああ、馬鹿だよ。くだらない――。」

 うつ伏せに倒れる、どさりと重くて鈍い音が、辺り一帯に砂利を伝って響いた。彼女はやはり無表情で享年十九と二十歳の間であろう人間を、足で蹴りあげ、仰向かせる。口だけ動かして、淡々と言葉を口から吐きながら、届かない思いを胸のどす黒いところへしまい込みながら。
 篠のほうが、凪より半年多く生きていた。篠のほうが、凪より半年分多く経験を重ねているはずだった。篠のほうが、凪より社会情勢に直接関わっている時間が長いはずだった。けれど、凪のほうが、篠より数倍人間らしく、渦潮に流されながら必死にもがく大人よりも遥かに大人であっただけだった。
 ナイフを持っていない手で、懐中電灯を拾いあげて再び凪の顔を照らす。思った通り、瞳孔が開いたままで、口が情けなく半開きになっている。まさに阿呆面で、もともと悪相だったせいか、返って哀れに空めいている雰囲気だった。

「くだらないんだよ。生も、死も。」

 それでも、あたしは生きている。
 篠は、刃の金属に粘りついた、ついさっきまで彼の中を張り巡らせていた血液を、ひと舐めする。
 鉄の味は舌全体に広がって、唾ごとごくりと飲んだ時にはもう、苦味だけだった。








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20060530
このころからすでにじんせいにあきていたかもしれない