あの日、俺は空を見上げた。
 ふと見た瞬間は、とても不思議な色だなと思った。夕方の、淡い紫がかった青いヴェールが俺を中心に包みかぶさっているような、本当に摩訶不思議な感覚を持った。俺の佇んでいるこの場所には、人為的に照らされる明かりがほとんどない。だからなのか、空色が普通に綺麗だというように見えたのかもしれない。そんな、自然だけで表されたような夕焼け色が、俺に揺るぎない安らぎをもたらした。
 でも、いまの俺は違った。あの頃と全く同じ色を醸しだしている空色は、俺に微笑みを向けてはくれない。見ていても、俺の中に溶け込むような感覚が持てない。俺が抱いているかもしれない虚無感からなのか、なんなのか、俺にはよく理解できなかった。
 事実、以前に見入った夕空と、俺が眺めている空色は、確かに調和していると思う。学校近辺では絶対に見入る事のない、濃い色の含まれている、筆でペイントされたような鮮やかな青。そこに橙と薄い黒が載せられて、夕焼けに染まった空色。時期だって同じだから、同じに決まっているはずなのに。
 等しいのに、なにかが違う。
 変わらないのに、……俺が違う。
 川縁の周辺を、とぼとぼ歩く。違うのは俺だと感づいてから、歩きながら無性にその事を重点的に考え込むも、答えという答えは出なかった。
「あ、ミサキじゃん。おーい!」
 ヒデが、俺の背中に声を掛けるまでは。
 振り返ると、先程のように遠くから、俺を呼び掛けながら大きく手を振っている親友が目に映る。ヒデは、大急ぎで俺の所まで走ってくると、あまり息切れした様子もないので、俺はいつもの調子を装って話し掛ける。
「ヒデ、部活は終わったのか?」
「夕飯当番があるから早引きしちゃったよ。ミサキこそ、こんな所でなにをやってたの?」
 ヒデに母親はいない。というより、母親の顔を見た事がないそうだ。夕食当番というのも、ヒデの父親との話し合いによって、どちらが担うのかを予め決めているのだと聞いた覚えがある。
 放課後は野球部で活動していながら、部活と家事と勉強までをも両立してこなしている。しかも、ヒデは徒歩で一時間という遠い所から学校に通ってきている。中学生にしては、かなりの距離だなと俺でも驚くのだが、相手にとってはこれが当たり前であり、日常だ。ヒデにこんな所という言葉を使われたのも、いま俺達がいる道を通って登下校するのはヒデくらいだからだ。
 そして、俺がここにいる理由。常に時間に追われているような親友と比べて、俺は。
「……歩いてたら、ここにきた。」
「なに言ってんだか。ミサキがロマン的なことを口にするなんて、知らなかったなー。」
 正直に答えたはずが、逆に軽くあしらうような言い方をされた。その上、頭の後部に腕を組んで、明らかにからかい半分に笑みを浮かべるヒデの表情に、俺は立場を取られたような気がしてムカッとなった。
「だあぁっ! そういう気分だったんだよ、もうそこには触れないでくれ。」
「わかったわかった、そうムキにならないでよ。」
 頷きながらもまだ口元を綻ばせているヒデに、俺は空っぽの笑みを零す。心も空っぽだったのだから、笑っている俺も空っぽなのかもしれないと思った。
 刻々と日が沈み、辺りは静かに夜を迎えようとしていた。紫苑色の空がだんだんと濃く塗られ、ぽつりぽつりと光華の星の粒が姿を現す。明るい頃は雲に打ち解けていた月が、沈んだ太陽の光に反射され、その体を輝かしく帯びさせている。
 俺達は近くの川縁に、無言で隣り合って腰かけていた。黒い川は、時々なにかの光に反射され、ゆらりと動く水面をキラリと仄めかす。その色もなかなか幻想的で美しいのだが、俺は特に感想の言葉を浮かべなかった。
 ライトを点けた一般車が道を通過した。その度に、暗かった道路が打ち上げ花火が舞ったように照らされる。
「……ヒデ、忙しいんだろ? 行かなくていいのか?」
 俺が声を掛けたのは、だいぶ時間が経ってからのような気がする。会った時はまだ日が暮れていなかったのに、いまはもう真っ暗だ。冬だから、もう六時は優に過ぎているのだろうか。
 夕食を作るなら、もう買い物が終わっていても、とっくにいい時間なのかもしれない。家事は全て親がやっているので、ヒデと仲良くなるまで気にした事なんてなかったが、俺の母親は少なくとも終えている頃だ。
 それなのに、ヒデは俺の隣から離れようとしない。一旦、会話が途切れた後も帰るような素振りは窺えず、そのまま俺とヒデは共に座っていた。喋りもしないのに、話も出てこないのに。気まずいのは俺だけなのかと思わせられたくらいだ。
「別に。父さん、毎日遅くまで仕事しているから、ちょっとくらい遅れたって食べるのは僕独りだけだから。」
 明るく話すヒデは、光の辺り具合からなのか、少し寂しそうにしている顔が印象に残る。
「それに、ミサキとゆっくり話せるのも久しぶりだし。ちょっとくらい平気かなって思って。な、いいよね?」
「あ、うん……。」
 そんなヒデと一緒にいたら、不思議と俺も嬉しくなってしまう。迷わず、俺は首を縦に振った。振ったけれど、何故かヒデから話してこない。
 ならば俺がと考える……のだが、最近のドラマなんて、ヒデはまずテレビをつけてなさそうだし、漫画とかもあまり読んでいないって前に聞いたし。野球部は――。
「そうだ。野球部、どうしたんだ?」
「甲子園を目指して、毎日練習がハードだよ。先生に言づけて試合に出るレギュラー陣から外してもらったし、そろそろ退部しようと思ってるんだ。」
「そ、そうなんだ。」
 頷く事しかできない。会話が、俺の思い浮かべるように進まない。沈黙が重く圧し掛かって、俺にはだんだんと耐えられなくなってしまい、居た堪れない気分になりさえもした。
 そういえば、いつもこんな風だった。昔は、よくヒデに俺の悩みを残さず聞いてもらったのだが、それはヒデが笑いながら、まじめに物事を受け取らないようでいて、実はちゃんと人の立場になってアドバイスをくれるから。俺の目前に壁が立ちはだかった時とか、よくお世話になっていたんだ。俺とは全然対照的だから、こういった話題が普段の会話の大半を占めていたんだ。
 ヒデになら、上手く話せるかもしれない。そう考えられたら、その次が早かった。
「あのさ、……俺の将来に目指してる、作家の事なんだけど。」
「ようやく喋る気になった?」
 話を切りだした時、不意にヒデが真剣な顔で俺を凝視した。まるで、いつもの相談事を心から待っていたのかのように。
「ミサキは大体ワンパターンだよね。いつかも考え事があった日は、自然と僕の近くにきてた。そういうところ、変わってないなー。」
「う、うるせぃ。」
 いつの間にか、ヒデの面白い方向にもてあそばれている気がして、俯いた。きっと、俺の顔が夕焼けのように、赤々と染まっているんじゃないか、って。
「はいはい、わかったから。話してごらん?」
 ヒデに優しくなだめられてしまった俺は、まだ少し恥かしい気持ちのままだったが、少しずつ言葉を纏める事にした。言いながらでも、自分でもなにを言っているのか分からなくなっても別にいい。とっさに考えていた内容の間逆へ思考を巡らせられない俺の事だから、そうだって思っていない事柄は絶対に口に出さないはずだって思えたから。
「……俺、作家をやりたいんだって前に言ったじゃん? 本当は、親にはなにひとつ、その事を話していなかったんだ。」
 喋っているうちに、自然と俺の中にあった恥かしさが消えていた。気づかぬうちに、相談ばかりしていた頃が懐かしくなって、心の中に甦ったのかもしれない。
 ヒデは、黙って俺の語っている言葉を耳に聴き入れている。次の俺の言葉を、有無を言わずに待ってくれている。俺は、頭の中に渦巻いていた言葉を丁寧に紡ぎながら、声に出して続けた。
「話してみたんだ。一生懸命、未来にやり続けたいって言ったんだ。けれど、反対されたんだ。趣味だったら構わないけれど、作家だけでは収入も不安定で、食べていけるのは難しいって。有名になればお金も入って生活ができるけど、そのぶん仕事や原稿がたくさん増えて、締め切りに追われたりして、大変なんだって……。」
 どんなに困難な事であろうと、やりたい気持ちは決して嘘なんかじゃない。けど、現実には難しい。趣味だけでならやってもいい。けれど、たくさんの人に俺の作品を、想いを、俺の書きえがく様々な物語で、伝えたい。だから作家になりたいと思って俺は夢を見続けた。
 ヒデに、俺自身の事で何度か相談したという経験があるのは、俺が最初から諦めている部分もあるけれど、ヒデにもその他の人達にも、自分のちゃんとした正しい考えを、伝える事ができないから。だから親にだって反対されたんだと、俺自身の中でそう決めつけている。空の風景とか、人の感情とかなら、一杯いっぱい感じ取る事ができるのにな……。
「親には、駄目だって言われたんだ。……諦めるしか、ないのかな……。」
 俺の声は、完全に沈んでいた。最初、話し始めた時より声量が少なくなっているのが、俺本人にも飲み込めていた。
 ヒデと再会する前も、俺はずっと自分の将来の夢を考えていた。ぼんやりと、考えながら空を見上げていたせいで、いつも感覚を持ち得ていた外界からはどんなものも感じられなかった。日が沈んだように、心が地平線の下に潜っていた。
 でも、ヒデは綺麗に笑うんだ。
「夢を信じて、生きてゆけばいいじゃんか。」
 笑って、まっすぐな瞳を俺を向けて、俺を肯定してくれるんだ。
 ヒデは一言で、どんなに深く沈んでしまった俺の心を、地平線の上へ昇らせてくれるんだ。
「どんなことでも、やってみないとわからないよ。自分を信じて、自分の夢を信じて、作家を目指して生きてゆけばいいじゃん。うん、それが一番だよ。」
 ヒデは笑った。偽りでもなく、からかっている訳でもなく。そんなヒデを前に、俺も自然と微笑んだ。ヒデにつられた訳ではなく、俺は自ら笑顔を零した。
 悩むという事は、俺の中ではもう答えを導きだせているんだという概念みたいなものがあったから、なんだか凄く安心できたんだ。
「いいなー、ミサキは。僕は夢なんて持ってないから。日々、洗濯やら料理やらの同じ事の繰り返しだもんなー。」
 頑張るぞーっと呟いている俺の横で、微かに震えたヒデの声が耳に入る。ヒデの独り言を正確に聞き取っていなかった俺が振り向いた時には、既にヒデはその場で立ちあがっていた。学生鞄を勢い任せに背負い、俺にくるりと背を向ける。コンクリートの道へ早歩きしながら、上半身を俺に向けて、大きく手を振った。
「頑張れよーっ!」

 俺は、しばらく川縁に座り込んだままだった。
 ヒデの姿が見えなくなった後から、ヒデが最後に残した愚痴を悟って、おもむろに思い返していた。
 いまこれを書いている俺にも、なんとなくしか分からない。きっと、俺に伝えたかった事があったのかもしれない。夢を信じて生きてゆけと俺に言い、肝心の本人には夢がない。一体どんな事を意味しているのか、その時の俺にも理解できなかった。ただわかる事は、時々光る水面がとても穏やかで、純真で。他のなににも変えがたい美しさがそこに芽生えていたんだ。
 あの日の夜空の空色は、真っ暗に浮かぶ星がいつもより多くの輝きを魅せていた。星の数ほどなにかがある。まるで、その言葉に見合うような、数え切れない程だった。








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20051116
文芸部コンクール投稿作品、極小頁数ながらに評価はそこそこいただけました