均等にぼうぼうと伸び生えた草薮が、訪れてきた男達の足から膝元にかけて覆い尽くす。
 たまに吹きつける穏やかな風に揺れて右へ左へと躍る葉先が触れ合うのは、子供であり素足に短パンのライチにとって、とてもくすぐったく感じられた。
 彼らの向かう先には、一枚の細かい煉瓦が積み重なった、薄い壁がある。
 前をずんずんと歩いてゆくライチの後方では、困ったようにニドラスが息を吐く姿。はしゃがられては取り止めが上手くいかなくなる。ニドラスは呟きながら、苦笑いをするだけだった。

「たっかいね〜、すっご〜い。」

 まるで壁と背比べをしているかのように、ライチは腕をぶんぶんと振り回している。ぱっ、と見ただけでも、彼のおよそ三倍は高く聳えている壁に、人間が身長で適うはずがない。そうとわかっているだろうに、肩を必死に回し続けている彼を眺めているニドラスは、やはり目を細めて笑っているだけである。
 ライチは急に手を止めると、なにかを思いだしたように壁に手を触れる。感覚は、煉瓦そのもの。その事に納得が行かないのか、首を傾げたライチはニドラスの方へと振り返った。

「本当にここでいいのー? ねえ、ニドラスーっ!」

 そんな彼の呼び掛けに、気づいているのかそうでないのか、ニドラスは煉瓦の壁と目と鼻の先くらいの位置に立って向かい合うと、その場にしゃがみ込み、草地と壁とが擦れ合う部分を厳重に確認する。僅かだが、草を掻き分けて表に現れた土が、不自然にも引っ掻かれたように孤が描かれている跡が残っている。
 立ちあがったニドラスは、ライチに微笑み掛けた。苦笑や困ったような笑いではなく、喜びを隠せないで表に出た、笑顔。

「間違いない。今夜、扉が見れるかもしれない。」
「ほんとに? やったーっ!」
「……やれやれ。」

 喜びたいのは俺の方なのに。ニドラスは、素直に飛び跳ねて喜ぶライチを見ながら、深いため息を零した。
 煉瓦と煉瓦の隙間から、柔らかなで涼しげな風が通り抜ける。壁から離れた位置に生えている草叢は、一本たりとも揺れず掠れ音を発しなかった。なにも知らずしてこの場にやってきた者には、この風が上限なく不思議に思えて仕方ないだろう。
 ニドラスは、日が暮れようとしている空を仰ぎ見た。快晴、雲ひとつない夕焼け。満天の星空を観察するには絶好の天気。

「俺の理論が当たっていれば、間違いなく扉が現れる。……それまでの時間が長そうだが。」
「さっすが理論学者! 自信満々だね〜。」
「物事の筋道が合わなければ理論とは言えまい。自信もなにも、俺達は当然の事を訴えているまでだ。」
「なにそれ? よくわっかんな〜い。」
「……。」

 態度で爽快に理解不能を言い放つライチに、ニドラスはあまりに馬が合わない事に疲れを覚えはじめていた。実年齢でも十五は離れている上、相手はまだ十代になったばかりの子供だからと、ニドラスはライチのあどけなさに対して目を瞑る事にした。
 日が完全に落ち、これから新月の夜を迎えようとしていた。辺り一体は光を失い、徐々に闇の中へ溶け込まれ、空に浮かぶ天の川が段々と浮き彫りになってゆく。
 星の光は、どれだけ多くてその身を煌めかせていても、ライチ達の足場までをも照しだす事はない。ライチは、ニドラスの腕を強く堅く、掴んだ。身体を寄り添わせ、なにが起こってもニドラスから離れないように。それだけ足場は黒の中に生まれた黒で、なにも見えなかった、見えないのがとても恐ろしく感じたからだ。そう感じれば感じる程、時間の流れが緩やかに、遅く思えてしまう。ライチにはその感覚が苦でしかなかった。
 暗闇の中での沈黙が耐え切れなくなって、ライチはニドラスに徐に話し掛けようと口を開いた。

「……まだー?」
「まだまだ。」
「ええーっ!?」

 が、予想に反した返答が返ってきた為、ライチは思わず非難の大声を出した。
 相当落ち込んだのか、腕に縋ったまま全身の力を抜いたライチによって、ニドラスは錘を持ったような感触を受けた。

「……放せ。」
「嫌だ。」

 ニドラスは低い声で促したが、あっさりと否定されて、どうしようもない事に半ば落胆した。
 沈黙が迸り、一向に離れてゆかない彼の体重に、血の通わない腕が痺れを訴えている。

「……仕方ない。なら、俺が話す。えーっと、むかしむかし……。」
「は? なにそれ、親父ギャグ?」

 空気をはぐらかすように言ったはずが、逆に呆れられた物言いをされた。
 だが、そのお陰か、ライチは若干体制を持ち直し、掴む力を弱めた。再び血流し、やがて痺れによる痛覚が増していったが、ニドラスは何事もなかったかのように動じず、話を続ける。

「とにかく、だ。新月によって月明かりがここにはない。星の光だけの微弱な光だけが、扉が淡く光って見えるようになる鍵となるはずだ。時刻は深夜、まだまだ、だ。」
「……それまで大人しくしてろってことでしょ? そのあとはどーするのさ。」
「扉が見えたら、すぐ入れ。いつまで見えるかどうか判らないからな。見えなくなってしまって、その扉に鍵が掛かってしまったりしたら、次にくる新月の七月七日がいつになるかは想像がつかない。」

 ニドラスの言葉に、ライチはうえーっという声を出しながら身震いをした。
 もし、扉が見えるようになれば、ライチ一人だけがその扉を潜る。ニドラスは、ライチを見送るだけである。有名な論理学者が、愚か者の言葉を聞き入れて消えてしまった、なんていう報道が流れたら、とても面白い傑作だろうなと、ニドラスはほくそ笑む。

「しかし、言って置くぞ。もし扉の奥を通って新世界へ行って帰ってこれたとしても、決して人にこの扉の事を話すな。そんなものは幻想だのまやかしだの、夢のない人間はどうでもいい御託を並べて真相をねじ伏せるだけだからな。」
「うん。よくわからないけどそうする……新世界なんて、いまからぞくぞくするよ。」
「それを言うならわくわく、だろうに?」

 本当に理解しているのだろうかと、心底不安を隠しきれないニドラスだったが、壁が次第に淡い青の光を伴いはじめている事に、近づいてくる得体の知れない未来をまじまじと眺めているライチを見れば、心配しなくても平気だなと、ニドラスを安心させた。
 ニドラスから扉についての話を聞いたライチは、初めから行くんだと頑なに言っていた。後先考えず、万全の準備を整えて、ニドラスに案内されてやってきた彼に、恐れるものはなかった。これからもないのだと、信じて疑わずに扉を凝視する。
 扉が、輝く。青い光を満面に発して、一枚の壁が厳かな金属質の青い扉へと変化した。

「行け! 七夕の日に、彦星が織姫を迎えにゆくように、扉を開いて新世界へと渡れ!」

 ニドラスの呼び掛けに、有無を言わずしてライチは扉を開けた。
 羽のように軽いその扉の奥から、涼しい風をニドラス達のいる方向へ強く吐きだした。扉が招かれざる客人を歓迎するかのように。
 扉が閉じられるその時まで、ライチはニドラスの方へ振り向く事はなかった。
 奴はもう二度と帰ってこないかもしれないと、ニドラスは切なげな笑みを漏らし、淡い青の光が完全に失せた後も、壁から視線を外さずに呆然と見ている。
 いまはもう、壁の煉瓦と煉瓦の隙間から吹く風は、なかった。








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20050926
お題は星空。合同作品による序章担当、旅立ち